2023年6月、IFRS Foundation傘下のISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が、世界初の包括的なサステナビリティ開示基準としてIFRS S1(一般要求事項)とIFRS S2(気候関連開示)を公表した。これは確かに大きな達成だった。乱立していた開示基準を一つの土台に畳み込んだのだ。だが、2026年のいま問うべきは「どの基準に従うか」ではない——その答えはもうISSBで決着している。問いは次の段に移った。共通の土台(ベースライン)の上に各国が積み増す"上乗せ規制"のうち、自社を実際に縛るのはどれで、約束された比較可能性はどこまで本物なのか。本稿は、S1/S2の構造とBuilding Blocks Approachを押さえたうえで、2026年時点で土台が揃う一方その上が分岐・後退している現実を、IFRS Foundation等の一次資料に基づいて整理する。

「アルファベット・スープ」を畳んだ、という達成

2010年代後半、サステナビリティ開示の基準は「アルファベット・スープ」と揶揄されるほど乱立していた。TCFD(気候)、SASB(業種別)、GRI(マルチステークホルダー)、IIRC(統合報告)、CDSB(環境)が相互運用性の乏しいまま並び立ち、企業は同じ情報を何度も作り直していた。ISSBはこれを一つの審議会のもとへ統合した。2020年にIFRS財団が設立構想を市中協議にかけ、2021年のCOP26でISSB設立を発表、CDSBとVRF(IIRCとSASBの統合体)をIFRS財団に取り込み、2022年に公開草案、そして2023年6月にS1/S2を最終化した。両基準は2024年1月1日以後に開始する事業年度から発効している。

気候開示の旗振り役だったTCFDも、役割を終えた。IFRS財団の発表によれば、FSB(金融安定理事会)は2023年7月にTCFDが任務を完遂したと表明し、TCFDは2023年10月に最終ステータスレポートを公表して解散、企業の気候開示をモニタリングする役割は2024年からISSB(IFRS財団)が引き継いだ。ここを「2024年にTCFDが解散した」と取り違える記述を時折見かけるが、解散は2023年であり、2024年はISSBが監視役を継いだ年である。この統合の戦略的な意味は、サステナビリティ開示を会計基準(IFRS)と同じガバナンスと厳格性のもとに置いた点にある。IFRS会計基準が140を超える国・地域で要求されているという既存インフラが、ISSB普及の追い風になっている。

ISSBとIFRSサステナビリティ開示基準の意義は、IFRS Foundation自身が公式に発信している。背景や企業・投資家への含意を俯瞰するには、公式映像が精度の面で参考になる。

出典:IFRS Foundation 公式チャンネル「Perspectives series: How the IFRS Foundation can get you started on the ISSB Standards」

S1とS2——「上位ルール」と「気候の積み増し」

二つの基準の関係は、土台と積み増しで理解するのが早い。IFRS S1はすべてのサステナビリティ・トピックに共通する上位ルールで、気候だけでなく自然・人権・人的資本・サイバーセキュリティなど、企業の見通し(prospects)に影響しうるリスクと機会全般に適用される。その骨格はガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標の4本柱で、これはTCFDの枠組みをそのまま継いだものだ。だからTCFD対応を進めてきた企業は移行コストを抑えられる。重要なのは、S1が開示対象を「企業価値に影響するもの」に絞るシングル・マテリアリティを採る点で、マルチステークホルダー視点のGRIとはここで思想が分かれる。

その上に重なる気候特化の基準がIFRS S2だ。S2はTCFDの11の推奨開示をすべて取り込みつつ、定量化と業種特有性を強める。Scope 1・2・3排出量の絶対値開示(Scope 3は15カテゴリーのうち重要なもの、算定はGHGプロトコル準拠)を求め、初年度はScope 3開示を1年間免除する経過措置を置く。そして業種別の指標として、ISSBが2022年に引き継いだSASB基準(11セクター・77業種のSICS分類)が組み込まれている。たとえば銀行業ではファイナンスド・エミッション、海運業ではエネルギー効率といった、業界固有の指標が要求される。S1で共通の器を作り、S2で気候の中身を厚くする——この二層構造が基準の設計だ。

Building Blocks Approach——「土台は共通、その上は各国次第」

ISSBが繰り返し掲げてきたのがBuilding Blocks Approachである。ISSB基準を世界共通のグローバル・ベースライン(土台)と位置づけ、各国・地域はその上に独自の要件を積み増せる、という設計思想だ。土台は投資家向けのシングル・マテリアリティ。その上に、EUのCSRD/ESRS(マルチステークホルダーのダブル・マテリアリティ)や各国の国内基準が乗り、さらにGRIやCDP、TNFDといった自主開示が補完する。聞こえはよいが、これは裏を返せば「土台は揃えるが、その上は各国が好きに積む」という宣言でもある。

比較可能性がどこまで本物かは、まさにこの積み増しの層で問われる。気候に関しては、IFRS財団とEFRAG(ESRSの策定主体)が2024年5月に相互運用性ガイダンスを公表し、S2とESRS E1(気候)の高い整合が文書化された。同じ気候開示を二度作る手間は、ここでは確かに減る。だが、この相互運用性はあくまで気候に限った話であって、ESRSの全トピックやダブル・マテリアリティの考え方までISSBと揃うわけではない。「ISSBとCSRDは相互運用できる」と一般化するのは行き過ぎで、揃っているのは土台に近い気候の部分だけ——比較可能性が本物なのはベースライン、まだ売り文句に近いのはその上、という線引きを押さえておきたい。

2026年の現在地——土台は揃い、上は割れている

各国の適用状況を並べると、Building Blocksの上層がいかにばらついているかが見えてくる。土台としてのS1/S2構造はほぼ各国に共通して採られた。一方で、それを義務として被せる上乗せ規制は、収れんするどころか分岐し、いくつかは後退している。

義務化を着実に固めている代表が日本だ。SSBJ(サステナビリティ基準委員会)は2025年3月にISSB整合の3基準を確定し、金融庁が2026年に内閣府令を整え、有価証券報告書での開示を時価総額3兆円以上のプライム上場企業で2027年3月期から義務化(以降1兆円以上が2028年3月期、5,000億円以上が2029年3月期)する段階適用を確定させた。香港もLargeCap上場企業に2026年から気候開示を義務づけ、台湾も資本金100億台湾ドル超の上場企業に2026年度から適用するなど、アジアでは前進が目立つ。シンガポールも上場企業のScope 1・2開示を2025年度から始めている。

ところが、欧米では話が逆を向く。米国はSECが2024年3月に気候開示規則を採択したものの、翌4月に施行を自ら停止し、規則は一度も発効しないまま訴訟に入った。2025年にSECは規則の擁護を取り下げ、2026年5月には規則の全面撤回を提案するに至った。つまり連邦のSEC規則を「有効な上乗せ規制」として数えるのは、もはや誤りだ。米国で実際に動いているのは、むしろカリフォルニア州のSB253/261といった州レベルの規制である。EUも2025〜26年のオムニバス(簡素化)でCSRDの適用時期を後ろ倒しし対象を絞った。ブラジルは当初2026年度から義務化する予定だったが、方針を転換して任意化し、2027年からは「遵守か説明か(comply-or-explain)」に切り替えた。韓国は義務化を2026年以降へ先送りし、開始時期も未確定だ。豪州のAASB S1/S2は——しばしば「2024年8月最終化」と書かれるが正しくは2024年9月20日に公表され、S2が義務・S1が任意という形で大企業から段階適用される。英国はUK SRSを2026年2月に確定したがまだ任意で、上場企業への義務化はFCAの最終規則を待つ。カナダもCSDS基準は任意のままだ。

要するに、土台は世界共通言語として実装が進んだが、その上に各国が被せる「義務の網」は、揃うどころか時期も範囲も割れ、米国やブラジルのように引っ込めた国さえある。グローバル・ベースラインが「ほぼ確立」と語るのは土台までの話で、その上はいまも動いている——この区別が、海外子会社を抱える企業の対応を誤らせないための前提になる。

日本企業の実務——SSBJ準拠を、どう使い倒すか

SSBJ基準はISSBのS1/S2を土台に、日本の実情に合わせた調整を加えたものだ。4本柱の骨格はISSBと同じで、円・ドルの金額換算、有価証券報告書との接続、開示のタイミング、業種別ガイダンスの使い方といった点に日本独自の手当てがある。だから「SSBJ準拠=実質的にISSB準拠」として、グローバル投資家対応や海外子会社の統合報告、重複上場の局面で使い回せる。問題は、EUに子会社を持つ企業だ。ISSBのシングル・マテリアリティとESRSのダブル・マテリアリティは出発点が違うため、同じ事象を二つの視点で評価し、開示の整合を保つ必要がある。グループのマテリアリティ分析プロセスを二層で設計するのが現実的だ。

実装で最も骨が折れるのは、やはりScope 3だ。15カテゴリーのうち重要なものの絶対値開示を求められるため、サプライヤーエンゲージメントや業界共通のデータ基盤の活用で算定精度をどう確保するかが、ISSB対応の最大の論点になる。保証も、当初は限定的保証から入り、将来的に合理的保証へ移ることが想定されており、会計監査並みの水準を求められれば、サステナビリティ情報に対する内部統制の整備が課題になる。そしてその先には、サステナビリティ・データをアドホックなExcel集計から、財務報告と同等にシステム化・プロセス化する「サステナビリティ会計」への移行がある。これが今後数年の本丸だ。

投資家との対話も質が変わる。ISSBの登場で、サステナビリティ開示は広報・IRの一部から、財務開示と同等の意思決定インプットへと位置づけが移った。対話の焦点は、開示数値の正確性と比較可能性、業種ベンチマークとの相対位置、そして移行計画の説得力に寄っていく。欧米企業との比較可能性が高まるほど、グローバル投資家のエンゲージメントは鋭くなる。CSO・IR・財務報告の連携が、競争優位の前提になる。

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「世界共通言語」を、過信せず使い倒す

ISSB IFRS S1/S2が、10年弱続いた基準乱立を統合し、サステナビリティ開示の共通言語という土台を築いたことは間違いない。Building Blocks Approachは、その土台と各国独自要件を両立させる現実的な設計だ。日本企業もSSBJ基準を介して、すでにこのグローバル基準に接続している。だからこそ、土台の比較可能性は使い倒す価値がある。一方で、その上に積まれる義務の地図は、いまも書き換わり続ける移ろいやすいものだ——米国は引っ込め、ブラジルや韓国は緩め、日本やアジアは固める。S1/S2準拠を単なる規制対応で終わらせず、投資家対話やグループ・ガバナンス、サステナビリティ会計の高度化を進める装置として戦略的に使う。そのうえで、自社を実際に縛る上乗せ規制がどれなのかを冷静に見極める。この二段構えが、2030年代に開示で先んじる企業の条件になる。判断材料を磨く段では、各国の実装を追っている実務者との対話が、地図の更新を助けてくれる。