2023年6月にISSB(国際サステナビリティ基準審議会)がS1・S2基準を公表し、TCFDは役目を終えて解散した。一方で、TCFDが提唱した「ガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標」の4本柱は、ISSB基準にそのまま引き継がれ、グローバルな気候開示の標準枠組みとして現在も生きている。日本では、コーポレートガバナンス・コードの改訂と有価証券報告書の「サステナビリティに関する考え方及び取組」記載欄の新設により、上場企業に対して実質的な開示義務として組み込まれた。本稿では、最新のJPX調査データと環境省ガイドラインを参照しながら、TCFDフレームワークの現在地、実装の勘所、そして次に企業が直面する論点を整理する。

1. 日本のTCFD開示の現在地 — データから見る到達点と課題

JPXが2024年3月に公表した「生成AIを用いたTCFD開示調査」では、2023年4月以降に有価証券報告書を提出した東証上場会社2,198社を対象に、27クライテリア別の開示状況が定量化された。市場区分別の開示水準の差は際立っている。

市場区分別の開示成熟度(27クライテリア中の平均開示数)
市場区分対象社数平均開示クライテリア数
プライム市場1,088社平均17クライテリア
スタンダード市場952社平均7クライテリア
グロース市場158社平均4クライテリア

出典:JPX「生成AIを用いたTCFD開示調査」(2024年3月、ニュースリリース調査本体PDF)。以下のクライテリア別開示率も同調査による。

27クライテリアすべてを開示しているのは15社のみ。一方、いずれのクライテリアにも該当しない「開示なし」企業も130社存在する。賛同表明と実装の質の間に、明確な格差が残っている。

TCFD賛同企業数では日本が世界最多

経済産業省によれば、2023年10月12日時点で世界全体4,872機関がTCFDに賛同を表明し、そのうち日本は1,470機関(非金融1,088社・金融231社)と世界最多だった。TCFDは2023年10月に解散して新規賛同の受付も終えたため、この数字が事実上の最終値である。賛同表明の数では世界をリードしたわけだが、問題はその先——開示の内実にある。

日本企業がTCFD賛同で世界をリードする一方、開示の内実は市場区分・規模・業種で大きな格差がある。「やる」と「やれている」の差は依然として大きい。

2. TCFDからISSBへ — 何が変わり、何が残るか

2023年6月、IFRS財団のもとに設立されたISSBが、サステナビリティ情報の全般開示基準(S1)と気候に特化した基準(S2)を公表した。その役目を終えたとしてTCFDは2023年10月に解散し、2024年以降はIFRS財団が金融安定理事会(FSB)から気候開示のモニタリングを引き継いでいる。

国内の制度動向

  • 2021年:コーポレートガバナンス・コード改訂。プライム市場上場会社に「TCFDまたはそれと同等の枠組みに基づく開示の質と量の充実」を要請
  • 2023年1月:金融庁が「企業内容等の開示に関する内閣府令」を改正。有価証券報告書に「サステナビリティに関する考え方及び取組」記載欄を新設(2023年3月期から適用)
  • 2023年以降SSBJ(サステナビリティ基準委員会)が国内基準を開発中

変わったこと/残ったこと

変わったのは、任意開示から法定開示への移行、「賛同表明」から「実質的な義務」への重みづけ、責任主体が経営トップへ明確化したこと。残ったのは、4本柱の構造、シナリオ分析の重要性、マテリアリティ(重要性)に基づく開示の考え方、そして業種別ガイダンスの基本構造である。

視点:ISSB移行は枠組みの転換ではない

ISSBへの移行は、フレームワークの転換ではなく、自主開示の規範であったTCFDが、より強い法定要件として制度化されたと理解するべき。社内ではTCFD対応をやめてISSB対応を新たに始めるのではなく、TCFD対応の延長線上で、より厳密なデータ取得・検証体制へとアップグレードしていく形になる。

3. 4つの柱を改めて読み解く — クライテリア別の開示状況

JPX調査の27クライテリア別開示率データから、4本柱それぞれで進んでいる項目と遅れている項目が見えてくる。

3-1. ガバナンス(最も開示が進んでいる柱)

4本柱で最も開示が進むのがガバナンスだ。全2,198社のうち、経営者が気候情報を受け取るプロセスを記す企業は84%(1,851社)、取締役会が報告を受けるプロセスは78%(1,713社)に達する。ところが、報告を受ける「頻度」を定量的に示す企業は33%(735社)、取締役会がどうモニターし監督しているかという「方法」まで書く企業は53%(1,175社)にとどまる。プロセスの存在は書けても、頻度の定量化や監督の実効性の証跡はまだ薄い、ということだ。市場区分の差も大きく、取締役会報告プロセスの開示はプライムで92%に達する一方、スタンダードは66%、グロースは53%。「言及」には届いても、「実効性」の証跡には至っていない。

3-2. 戦略(シナリオ分析が最大の壁)

戦略の柱が問うのは、短期・中期・長期のリスクと機会、ビジネス・戦略・財務計画への影響、そしてシナリオに基づく戦略のレジリエンスである。ここが4本柱で最も開示が薄い。事業・戦略への影響に言及する企業は47%(1,024社)あるものの、シナリオ分析に踏み込むと数字は一気に下がる。2℃以下シナリオに沿った検討は23%(495社)、シナリオ下の戦略対応は27%(604社)にとどまり、財務計画への定量的影響に至っては16%(358社)と、全27クライテリア中で2番目に低い(最低は後述するGHG排出量の過去実績の13%)。シナリオ分析と財務影響の定量化——この二つが戦略開示の二大ボトルネックだ。重要性評価を伴う任意開示項目であることに加え、定量化そのものの難しさと、戦略議論への接続の難しさが、その本質的な要因である。

3-3. リスク管理(プロセス開示は進む、統合度評価が課題)

リスク管理では、リスクを管理するプロセスの開示が78%(1,713社)、識別・評価プロセスが66%(1,459社)と進んでいる。だが核心は、それが既存の全社リスクマネジメント(ERM)に統合されているかにある。ここを開示できている企業は3分の1前後(特定・評価プロセスの統合が32%、管理プロセスの統合が33%)にとどまる。気候リスクを「サステナビリティー部門の問題」ではなく「全社リスクの一部」として位置づけられているか——ここが分かれ目になる。

3-4. 指標と目標(過去実績値の開示が決定的に薄い)

指標と目標の柱では、評価指標の開示が49%(1,076社)、気候関連目標が46%(1,008社)、Scope 1・2排出量が37%(822社)と並ぶ。だが決定的に薄いのは、その「推移」だ。評価指標の過去実績(2年以上)を示す企業は17%(372社)、GHG排出量の過去実績に至っては13%(276社)で、全27クライテリア中で最低となる。目標は掲げるが、実績の推移は示されない。これではトレンドも進捗も効果も評価できない。「ペーパー上の目標」ではなく「実装の証跡」としての連続データが、次のフェーズで問われることになる。

4. シナリオ分析の実装 — 6ステップで分解する

環境省「TCFDシナリオ分析実践ガイド(簡易版)」では、TCFDの技術的補足書(2017年6月)に基づくシナリオ分析の6ステップが整理されている。シナリオ分析を「分析が難しい」ではなく「手順を踏めば実施可能」なプロセスとして示しているのが特徴。

ステップ1:ガバナンス整備

戦略策定とリスク管理プロセスにシナリオ分析を組み込み、関連する取締役会の監視を行う。経営層・事業部・サステナビリティー担当を含め、誰を巻き込み、どう組織内に位置づけるかを決める。

ステップ2:リスク重要度の評価

移行リスク(政策・法規制/技術/市場/評判)、物理リスク(慢性/急性)、機会の各項目を列挙し、起こりうる事業インパクトを定性的に表現したうえで、重要度(大・中・小)を付与する。参考資料はTCFDセクター別ガイダンス、競合他社の開示、TCFD最終提言(2017)

ステップ3:シナリオ群の定義

1.5/2℃シナリオ(脱炭素が極端に進行する世界)と4℃シナリオ(自然災害が激甚化する世界)の両極端を設定。IEA「World Energy Outlook」IPCC Assessment Report等の公開シナリオを参照し、炭素税、EV/FCV販売台数等のパラメータの将来情報を入手する。

数値の精度を追求しすぎない。複数シナリオへの幅広な"構え"が、シナリオ分析の本質である。

ステップ4:事業インパクト評価

影響を及ぼす財務項目(投入コスト、事業コスト、収益、サプライチェーン、営業停止、タイミング)を整理し、算定式を検討。内部情報を踏まえて財務的影響を試算し、将来の事業展望にどの程度のインパクトをもたらすかを把握する。

ステップ5:対応策の定義

自社のリスク・機会への対応状況を把握し、対応策(ビジネスモデル変革、ポートフォリオ変革、能力・技術への投資)を検討する。排出削減量に基づく移行計画を策定し、社内体制構築と具体的アクションに着手する。

ステップ6:文書化と情報開示

プロセスを文書化し、関連組織とコミュニケーションを取る。主要な入力変数、仮定、分析手法、結果、経営上の選択肢を開示する準備を整える。

実務メモ:シナリオ分析の落とし穴

外部コンサルが提供する標準シナリオをそのまま採用するだけでは、自社の戦略議論にはつながらない。重要なのは、自社の主要事業の感度パラメータ(炭素価格、原材料代替性、需要弾力性など)を社内で定義し、議論の土台を作ること。読み手目線での情報開示と、経営層・事業部の巻き込みが、ガイド全体を通じた要諦。

5. 業種・規模で異なる「効くアプローチ」

JPX調査の業種別データから、業種ごとに開示が進む項目とそうでない項目の偏りが見える。

銀行・電力ガス(開示成熟、次は質的深化)

銀行業の取締役会監視は100%、電力・ガスの「2℃以下シナリオ」は62%と他業種を圧倒する。次の論点は「開示の質的深化」と「移行計画の実装」へ。

製造大手(シナリオ分析の財務影響まで)

電機・精密、機械、化学などプライム上場の製造大手では、ガバナンス・リスク管理は概ね開示済み。これからは「財務計画への影響」(プライム平均でも16%)の具体化と、「Scope 3」のサプライチェーン全体への展開が論点。

中堅・スタンダード上場(ガバナンス・リスク管理から)

スタンダード市場の平均開示数は7クライテリア。まずは「取締役会の報告プロセス」と「リスク識別・管理プロセス」の文書化から段階的に。完璧を目指して初年度で挫折するパターンを避ける。

非上場・グロース(スコープと粒度の見極め)

TCFDレポート発行は限定的だが、統合報告書や有価証券報告書での開示は進んでいる。アツギ(スタンダード市場・繊維)やプロテリアル(非上場・製造)の事例では、1.5/2℃と4℃のシナリオを設定し、参照シナリオを明記しつつ、定性的な事業インパクトと対応策を開示している(環境省ガイド事例より)。「定量化できないからやらない」ではなく「定性的でも段階的に」の姿勢が現実解。

6. 実務の論点 — 形式から実質へ

開示率データから見える日本企業のTCFD対応の構造的課題を、4つの論点に整理する。

論点1:シナリオパラメータの自社化

外部コンサルが提供する標準シナリオをそのまま採用しても、自社の戦略議論にはつながらない。重要なのは、自社の主要事業の感度パラメータ(炭素価格、原材料代替性、需要弾力性など)を社内で定義し、議論の土台を作ること。

論点2:Scope 3の取得難度

Scope 1・2の算定はおおむね定着。論点はScope 3にある。特にカテゴリ1(購入した製品・サービス)とカテゴリ11(販売した製品の使用)は、業種によっては全排出量の8割を占める。データ取得と検証可能性の双方で難易度が高い。サプライヤーエンゲージメント、業界平均値、製品ライフサイクル評価の組み合わせ運用がカギ。

論点3:移行計画の信頼性

SBT認定を取得していても、移行計画の実現可能性は投資家が検証する。技術的削減策、政策依存度、オフセット利用方針——これらの透明性が、目標の信頼性を左右する。

論点4:役員報酬KPIと株主提案

気候関連目標を役員報酬制度に組み込むかどうかは、海外機関投資家のエンゲージメントの論点になっている。日本でも近年の株主総会では、複数の企業に対して気候関連の情報開示を求める株主提案が提出され、議案によっては海外機関投資家を中心に2〜3割の賛成(高いものでおおむね3割弱)を集めるものも出てきた。可決には至らずとも、投資家からの圧力はもはや一過性ではない。

7. 開示は経営の解像度を上げるツール

TCFD/ISSBに対応した気候開示は、「IR部門の作業」では完結しない。経営企画、リスク管理、財務、調達、事業部——全社横断のプロジェクトマネジメントが、開示の質を決定づける段階に入った。

開示プロセスを「報告のための作業」ではなく「経営の解像度を上げるツール」として位置づけられるかどうかが、開示の真価を決める。自社を客観視するこの機会を戦略的に活用できる組織は、長期的に資金を引き付ける。

M&A・事業ポートフォリオ判断における利用

サステナビリティーDDの主要参照フレームとして、TCFD(およびISSB S2)が用いられる場面が増えている。買収候補のTCFD開示状況、シナリオ分析の前提パラメータ、Scope 3算定の境界線は、買収後の親会社グループ全体の開示品質に直結する。

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TCFDは枠組みとしての「役目を終えた」が、その思想と4本柱はISSBに引き継がれ、日本では有価証券報告書の記載要件として組み込まれた。「賛同表明」のフェーズは終わり、「実装の質」が問われるフェーズが始まっている。開示率データが示すのは、日本企業がTCFD賛同では世界最多ながら、実装には大きなばらつきがあるという現実。形式から実質へ、そして開示から経営判断への接続へ——次の数年が、各社のサステナビリティー経営の真価を決める。