人権リスクは、もはや法務部門だけの議題ではない。日本政府は2022年9月、「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定し、2023年4月には実務参照資料を公表した。一方、EUでは2024年7月に発効した「コーポレートサステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD:Directive 2024/1760)」が、日本企業を含む域外企業にも適用される。米国では1930年関税法307条とウイグル強制労働防止法(UFLPA)が強制労働関連製品の輸入差止を強化しており、フランスでは2017年企業注意義務法、ドイツでは2023年サプライチェーン・デューデリジェンス法が施行済み。人権DD(Human Rights Due Diligence/HRDD)はグローバル・コンプライアンスの基盤要件へと格上げされた。本稿では、経産省ガイドライン、国連ビジネスと人権に関する指導原則(UNGP)、EU CSDDDを踏まえ、企業に求められる実装ステップ、判断の論点、Sasla 活用シーンを整理する。
1. なぜ今、HRDDか
2011年に国連人権理事会が全会一致で支持した「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGP:United Nations Guiding Principles on Business and Human Rights)」が、現代HRDDの出発点である。UNGPは、グローバル化の中で企業活動が人権に与える負の影響が拡大している実態を踏まえ、国家の人権保護義務・企業の人権尊重責任・救済へのアクセスという3本柱を規定。国連、OECD(多国籍企業行動指針2011年改訂)、ILO(多国籍企業宣言2017年改訂)の主要国際枠組みに同じ思想が反映されている。
日本政府は2020年に「『ビジネスと人権』に関する行動計画(NAP:2020-2025)」を策定。2021年11月には経産省・外務省共同で行ったアンケート調査において、企業からガイドライン策定への強い要望が示され、2022年3月にガイドライン検討会が設置、同年9月に策定・公表に至った。
HRDDをめぐるグローバル規制の主な動き
EU:CSDDD(2024年7月発効、2028年から第1グループ適用)。コーポレート・サステナビリティ報告指令(CSRD)と並ぶ重要規制
米国:1930年関税法307条(強制労働製品の輸入禁止)、ウイグル強制労働防止法(UFLPA、2022年6月施行)
フランス:企業注意義務法(2017年)
ドイツ:サプライチェーン・デューデリジェンス法(2023年1月施行)
オランダ:児童労働DD義務化法(2022年)
日本:経産省ガイドライン(2022年9月、行政指針)
ノルウェー:透明性法(Åpenhetsloven、2022年7月施行)
これら規制群の特徴は、規模の閾値を満たす親会社/元請企業に対して、自社・子会社・サプライチェーンの人権リスクを特定・防止・軽減・救済する義務を課す点にある。同時に、義務が直接かからない取引先企業も、義務対象企業からの要請を通じて事実上の対応を求められる構造になっている。
2. 経産省ガイドラインの全体像 — 3要素
経産省ガイドラインは、企業に求められる人権尊重の取組みを、UNGP に整合する形で3つの要素として整理している。
企業による人権尊重の取組み — 3要素
① 人権方針:企業の行動を決定する明瞭かつ包括的な方針
② 人権DD(デューデリジェンス):負の影響の特定・評価、防止・軽減、実効性評価、説明・情報開示
③ 救済:負の影響を引き起こし又は助長している場合の是正・回復措置
5つの基本姿勢
ガイドラインは、3要素に取り組む際の基本姿勢として5点を挙げる。
- 経営陣によるコミットメントが極めて重要:トップダウンでの推進力なしには、組織横断の取組みは進まない
- 潜在的な負の影響はいかなる企業にも存在:「うちは関係ない」という姿勢は通用しない
- ステークホルダーとの対話が重要:労働組合、NGO、影響を受ける当事者との直接対話
- 優先順位を踏まえ順次対応していく姿勢が重要:完璧を求めず、深刻度の高いリスクから着手
- 各企業は協力して人権尊重に取り組む:業界・サプライチェーンでの共同行動
3. 「人権」「負の影響」「ステークホルダー」の定義
人権の範囲
ガイドラインが対象とする人権は、国際的に認められた人権。具体的には、国際人権章典(世界人権宣言+国際人権規約)と、ILO「労働における基本的原則及び権利に関する宣言」に挙げられた基本的権利が含まれる。
具体的に企業が留意すべき人権の例:
- 強制労働・児童労働に服さない自由:ILO第29号・第182号・第138号条約
- 結社の自由、団体交渉権
- 雇用及び職業における差別からの自由
- 居住移転の自由
- 人種、障害、宗教、社会的出身、性別・ジェンダーによる差別からの自由
- 安全で健康的な作業環境(2022年6月のILO総会決議で追加)
各国の法令を遵守していても、人権尊重責任を十分に果たしているとは限らない、という点が重要。法令の保護水準が低い国・地域では、国際的に認められた人権を最大限尊重する方法を追求する必要がある。
負の影響の3類型
企業の関与の度合いによって、負の影響との関係を以下の3類型に整理する。これがガイドラインの実装上、最も重要な分類である。
負の影響の3類型
① Cause(引き起こし):企業自身の活動が直接、人権への負の影響を引き起こしている場合
② Contribute(助長):企業の活動が、第三者による人権侵害を実質的に助長している場合
③ Direct Linkage(直接関連):企業自身は引き起こさず・助長していないが、自社の事業・製品・サービスがビジネス関係を通じて負の影響に直接関連している場合
類型によって、求められる対応の範囲と強度が異なる。CauseとContributeの場合は救済まで求められるが、Direct Linkageの場合は救済の役割を担うことはあっても救済の実施までは求められない(負の影響を引き起こした他企業への働きかけは引き続き求められる)。
ステークホルダー
「サプライヤー等」の範囲は広く、サプライチェーン上の「上流」(原材料・資源・設備の調達)と「下流」(販売・消費・廃棄)に加え、投融資先、合弁企業の共同出資者、設備保守点検事業者、警備サービス事業者などの「その他のビジネス上の関係先」を含む。直接の取引先に限定されない点が、HRDDの難所である。
4. 人権方針の策定
人権方針は5要件を満たすことが推奨される。
- 企業のトップを含む経営陣で承認されていること
- 企業内外の専門的な情報・知見を参照した上で作成されていること
- 従業員、取引先、関係者に対する人権尊重への期待が明記されていること
- 一般に公開され、関係者全般に社内外で周知されていること
- 企業全体に定着させるための事業方針・手続(行動指針、調達指針等)に反映されていること
形式的な「テンプレートのコピペ」では、社内浸透も投資家・取引先からの信頼も得られない。各社固有の経営理念と接続させて、「なぜこの企業が人権を尊重するのか」を語れる方針にすることが、実装の第一歩である。
5. 人権DD(デューデリジェンス)のプロセス
UNGP・OECD多国籍企業行動指針・経産省ガイドラインに共通する人権DDの基本プロセスは、4段階のサイクルで構成される。
人権DDの4段階サイクル
① 負の影響の特定・評価
② 負の影響の防止・軽減
③ 取組みの実効性の評価
④ 説明・情報開示
① 負の影響の特定・評価
関連情報の収集を出発点とする。具体的な方法:
- ステークホルダーとの対話:労働組合・労働者代表、NGOとの協議
- 苦情処理メカニズムの利用:既存窓口を通じた情報収集
- 現地取引先の調査:労働環境の現地調査、労働者・使用者へのインタビュー
- 書面調査:質問票送付、契約書・内部資料・公開情報の確認
優先順位付け
すべての負の影響に同時対応するのは不可能なため、深刻度(severity)を判断軸として優先順位を付ける。深刻度は次の3要素で判断される。
- 規模(scale):影響の重大性
- 範囲(scope):影響を受ける人数
- 救済困難度(irremediability):原状回復の困難さ
規模・範囲が大きく、救済不能性が高い負の影響(例:強制労働、児童労働、深刻な労働災害)から優先的に対応する。
6. 負の影響の防止・軽減 — 取引停止の判断
人権DDの実装で最も難しい論点が「取引を停止すべきか継続すべきか」である。経産省ガイドラインは、取引停止を「最後の手段」と位置づけ、慎重な判断を求める。
取引停止 vs 取引継続の判断
取引を停止する場合
・取引停止の段階的な手順を事前に取引先と明確化
・取引停止決定を基礎づけた人権への負の影響について、取引先が適切に対応できるよう情報提供
・可能であれば、取引先に対して取引停止に関する十分な予告期間を設ける
取引を継続する場合
・取引先の状況を継続的に確認
・定期的に取引継続の妥当性を見直し
・取引維持の決定がいかに自社の人権方針と一致するか、影響軽減の影響力行使試みは何か、を説明
ガイドラインは、特に「責任ある撤退」の重要性を強調している。紛争等の影響を受ける地域や、人権侵害が判明した取引先からの撤退は、撤退そのものが新たな人権侵害(労働者の失業、地域経済への打撃)を引き起こす可能性があるため、影響を考慮した段階的撤退が求められる。
紛争影響地域での「責任ある撤退」
武力紛争が生じている地域や、犯罪者集団による広範な暴力が及ぼされている地域においては:
- ステークホルダーが人権への深刻な負の影響を被る可能性が高い(特に性的・ジェンダーに基づく暴力)
- 紛争当事者と事業活動の関連性の判断が困難
- 納税等を通じて国家等による人権侵害の資金源となる懸念
事業活動の即時停止は必ずしも求められないが、関連性について慎重に検討し、その結果に応じて事業停止や終了の判断に至ることも十分に考えられる、とされている。
7. 取組みの実効性評価と情報開示
実効性評価
人権DDは「一度実施すれば終わり」ではなく、継続的な改善プロセスである。実効性評価は次の方法で行う:
- 定量・定性指標による測定(苦情件数、是正措置の完了率、研修受講率等)
- 外部監査(社会監査、独立評価機関のレビュー)
- ステークホルダーからのフィードバック
- 業界ベンチマーク・ESG評価機関の評価
情報開示
説明・情報開示の基本的情報として、以下が挙げられる:
- 人権方針を企業全体に定着させるために講じた措置
- 特定した重大リスク領域
- 特定した(優先した)重大な負の影響又はリスク
- 優先順位付けの基準
- リスクの防止・軽減のための対応情報
- 実効性評価に関する情報
開示媒体は統合報告書、サステナビリティ報告書、CSR報告書、人権報告書のいずれでも可。1年に1回以上の頻度が望ましい。東証コーポレートガバナンス・コード補充原則2-3①に「サステナビリティ課題に人権の尊重も含む」が明記されたことで、人権開示はESG情報開示の必須項目化が進んでいる。
8. EU CSDDDのインパクト
2024年7月に発効したEU CSDDD(Directive 2024/1760)は、EU域内および域外の大企業に、自社・子会社・バリューチェーン上の人権・環境への負の影響を識別・防止・軽減・終了する義務を課す。
適用範囲
段階的に適用範囲が拡大される予定で、第1グループは2028年から適用、その後段階的に対象拡大。一定規模(従業員数・売上高)の閾値を超えるEU域内外の企業が対象となる。日本企業も、EU市場で相当規模の事業を行う企業は対象となる可能性が高い。直接対象でない場合も、対象企業のサプライチェーンに組み込まれている企業は、契約上のDD要件として実質的な対応を求められる。
主要要件
- 人権・環境DDポリシーの統合(既存ガバナンス体制への組み込み)
- 実際の/潜在的な負の影響の識別、評価、優先順位付け
- 防止・軽減・終了のための適切な措置
- 苦情処理メカニズムの設置
- モニタリングと定期的な実効性評価
- 公開コミュニケーション(年次報告)
- 気候変動移行計画の策定(パリ協定整合)
違反時の制裁
違反時は、加盟国当局による命令・罰金(売上高の最大5%)に加え、民事責任(被害者からの賠償請求)の対象となる。これにより、サプライチェーン上の人権侵害が、EU域内での集団訴訟リスクに直結する可能性がある。
CSDDDの本質的なインパクトは、罰金ではなく「EUバイヤーが日本サプライヤーに対して、契約条項としてDD要件を組み込む」点にある。義務対象でない中堅・中小企業も、間接的に対応せざるを得ない構造になる。
9. 実装ロードマップ — 4段階のステップアップ
HRDDをゼロから立ち上げる企業向けに、現実的な実装ステップを4段階で整理する。
ステップ1:基礎構築(6ヶ月)
- 経営陣のコミットメント獲得(取締役会決議)
- 人権方針の策定・公表
- 担当部署・横断委員会の設置(法務・調達・人事・サステナビリティ・経営企画)
- 初期リスク・スクリーニング(業界・地域・原料の人権リスクマップ)
ステップ2:DDの本格運用(6〜12ヶ月)
- サプライヤー・アンケート調査(質問票送付)
- 高リスク取引先の現地監査・実地調査
- 負の影響の特定・優先順位付け
- 是正措置のための行動計画策定
ステップ3:苦情処理メカニズムと救済(12〜18ヶ月)
- 内部・外部の苦情通報窓口の設置(多言語対応)
- 調査・対応プロセスの文書化
- 救済・是正措置の実施記録
- JaCERのような業界横断的な苦情処理窓口への参加検討
ステップ4:継続的改善と開示(18ヶ月〜)
- 実効性評価指標の設定とモニタリング
- 人権報告書/統合報告書での開示
- EU CSDDD、CSRD等への対応
- 業界協働・コレクティブアクションへの参加
10. M&A・事業再編における人権DD
M&AのDDフェーズでは、買収候補のHRDD成熟度と、現存する人権リスクが、買収価格と買収後の責任に直結する。特に:
- 強制労働関連製品の輸入差止リスク(米国UFLPA等):買収後の輸出規制違反リスク
- サプライチェーン人権リスク:労働者集団訴訟、レピュテーション
- EU CSDDD対応コスト:買収後のシステム統合費用
- ガバナンス成熟度:苦情処理メカニズム、現地監査体制
これらの論点は、M&Aサステナビリティー BDDの不可欠な要素として、財務DD・法務DDと並走するべきテーマである。とりわけ、人権侵害が判明した買収先からの「責任ある撤退」のオペレーション設計は、買収検討段階から戦略的に考慮すべき項目となる。
11. 業界別の重点リスク領域
業種・地域・原料によって、人権リスクの種類と深刻度は大きく異なる。主な業界別重点領域:
- アパレル・繊維:縫製工場の強制労働、児童労働、長時間労働、ジェンダー差別
- 電気電子:紛争鉱物(タンタル、タングステン、錫、金)、製造工場の労働環境
- 食品・農業:技能実習生問題、農業労働者の労働条件、児童労働、強制労働
- 建設・インフラ:移住労働者の搾取、安全衛生、強制立ち退き
- 採掘・資源:先住民族の土地権、紛争鉱物、地域コミュニティへの影響
- パーム油・カカオ・コーヒー:児童労働、強制労働、森林破壊と労働者の権利
- 金融:投融資先の人権リスク(特に紛争影響地域、化石燃料、土地開発)
業界横断的な共通課題として、外国人技能実習制度に関連する問題(パスポート取り上げ、過剰な違約金、長時間労働)は、日本国内のサプライチェーンでの重点リスク領域である。
12. ステークホルダー・エンゲージメントの実装
人権DDの実効性を担保するのは、最終的には影響を受けるステークホルダーとの直接対話である。経産省ガイドラインも、TNFDも、UNGPもこの点で一致している。
実装上の論点:
- 言語の壁:技能実習生、外国人労働者との対話で母国語による双方向コミュニケーションをどう確保するか
- 報復防止:苦情を申し立てた労働者・地域住民が、雇用喪失や脅迫に晒されない仕組み
- NGOとの建設的関係:批判的なNGOを「敵」と見ず、知見の提供者・建設的批判者として活用
- 業界協働:単独企業では解決困難な構造的問題への共同対応
こんなときに、Sasla
・HRDDの立ち上げで、業界経験者の感覚値(どこから始めるか、どの順序で進めるか)を聞きたい
・EU CSDDD対応の準備で、先行企業の実装事例を確認したい
・サプライヤー監査のアンケート設計・結果分析で、業界専門家のレビューが欲しい
・取引停止 vs 取引継続の判断で、業界経験者の見解を得たい
・M&Aで対象企業のHRDD成熟度を、業界DD経験者と論点整理したい
・特定地域・原料(紛争鉱物、パーム油、技能実習等)のリスク評価を、現地・業界経験者から得たい
Saslaには、サステナビリティー経営、人権コンサルティング、サプライチェーン管理、業界別実務、現地国経験者などが業界横断で登録しています。1時間のスポットインタビューから本格的なリサーチ・伴走支援まで、フェーズと予算に応じて活用可能です。
13. 人権尊重を「経営の前提」に
HRDDは、5年前は「グローバル展開している大企業の課題」と見なされていた。今はサプライチェーンの中に組み込まれた中堅企業まで、対応を求められる時代になっている。EU CSDDDが2028年から段階適用される時間軸、米国UFLPAによる輸入差止の実例蓄積、日本国内での技能実習制度の見直し議論——複数の規制・社会的圧力が同期して、企業の対応水準を引き上げている。
規制対応コストとして消極的に取り組むのではなく、「人権を尊重する経営」を企業価値の前提として位置づけられるかどうかが、ESG投資の評価軸、優秀人材の獲得、消費者の選好、取引先の信頼——すべてに影響する。早く動いた企業ほど、苦情処理データ、サプライヤー監査の経験、業界協働のネットワーク、現地国コミュニティとの信頼という、模倣困難な資産を蓄積できる。
そして、これは気候・自然関連の開示(TCFD・TNFD・ISSB)とガバナンスとリスク管理の基盤が共通する。サステナビリティ全体のなかで、人権・気候・自然を統合的に管理する体制を組み立てることが、限られたリソースで多領域に対応する現実解となる。
出典・参考資料
本稿は、以下の一次資料・公的資料をもとに整理した。市場規模・スケジュール・制度内容は各時点の公表値であり、最新の改正・更新で変わりうる。