「グリーンクレーム指令は撤回された」——2025年6月以降、この表現を目にする機会が増えた。だが、この一文は正確ではない。欧州委員会は撤回の「意向」を表明したものの、正式な撤回手続きは踏まれておらず、指令案は審議停止のまま欧州委員会の2026年作業計画に係属案件として残っている。そして実務上より重要なのは、この騒動と入れ替わるように、もう一つのEU環境表示規制——エンパワーリング消費者指令(ECGT)が2026年9月27日に適用開始を迎えることだ。本稿は、グリーンクレーム指令が何を義務付けようとしていたのか、撤回騒動で実際に何が起きたのか、そして「指令が止まっても止まらない規制」に対して日本企業が何をすべきかを、欧州議会の公式審議記録とEU官報に基づいて整理する。EUの環境表示規制の全体像(ECGTの禁止行為の詳細、日本の景品表示法・金融庁の動向)は、親記事にあたるグリーンウォッシュ規制2026を参照してほしい。
1. グリーンクレーム指令とは何だったのか——「事前検証」という踏み込み
グリーンクレーム指令(Green Claims Directive)案は、2023年3月22日に欧州委員会が採択した、環境主張の実証と事前検証を義務付ける立法提案である(欧州委員会 環境総局)。「梱包材の30%が再生プラスチック」「この製品のCO2排出は2020年比で半減」といった明示的な環境主張を消費者に向けて行う場合、科学的根拠に基づく実証を行ったうえで、認定を受けた独立の検証機関による事前チェックを通すことを求める。乱立する環境ラベルにも網をかけ、新たな公的ラベル制度の創設を原則EUレベルに限定し、民間ラベルにも事前承認を要求する内容だった。
この「事前検証」が、指令案の最大の特徴であり、最大の争点でもあった。既存の不公正取引慣行指令(UCPD)は「ウソをついたら事後的に罰する」仕組みだが、グリーンクレーム指令案は「表示する前に第三者の検証を通せ」という事前規制に踏み込む。違反に対する制裁も、年間売上高の最低4%を上限とする制裁金を含む枠組みが提案されており(前掲・欧州委員会資料)、環境表示の運用を根本から変える可能性を持っていた。
2. 撤回騒動——2025年6月に何が起きたのか
立法プロセスは、途中まで順調に見えた。欧州議会の審議記録(Legislative Train)によれば、2024年3月12日に欧州議会が第一読会の立場を採択し、同年6月17日には理事会も一般的アプローチで合意。2025年1月と4月には欧州議会・理事会・欧州委員会の三者協議(トリローグ)が2回開かれ、主張・ラベル・検証・執行の各論点が詰められていた。
状況が一変したのは2025年6月20日である。欧州委員会が突如、指令案を撤回する意向を表明し、6月23日に予定されていた第3回トリローグは中止された。背景には、規制簡素化を求める欧州人民党(EPP)の圧力と、零細企業(マイクロ企業)を適用範囲に含めることへの反発、そしてイタリアの支持撤回により理事会の特定多数が不確実になったことがある。ところがその直後、欧州委員会側は「撤回を決定した事実はない」と釈明し、正式な撤回手続きも取られなかった。立法機関の合意が近づいた段階で執行機関が一方的に撤回を示唆したことには、欧州議会・理事会双方から強い批判が出た。
「撤回表明」と「正式撤回」は別物である。EU立法では、欧州委員会が提案を正式に取り下げる場合、作業計画への撤回リスト掲載などの手続きを踏む。グリーンクレーム指令案はこの手続きに乗っておらず、法的にはいまも「係属中の提案」だ。
3. 現在地——正式撤回なし・審議停止・係属中
では2026年8月時点の状態はどうか。前掲のLegislative Trainは指令案のステータスを「ブロック(審議停止)」と記載している。2025年10月21日に採択された欧州委員会の2026年作業計画では、指令案は撤回予定リストではなく係属中の立法提案として整理された。つまり、①正式撤回はされていない、②トリローグ再開の目処も立っていない、③欧州委員会は取り下げの決断も再推進の決断もしていない——という宙づり状態が、撤回表明から1年以上続いていることになる。
今後のシナリオは三つに整理できる。第一に、零細企業の適用除外などを盛り込んだ修正のうえでトリローグが再開されるシナリオ。第二に、係属のまま塩漬けが続くシナリオ。第三に、作業計画の改訂などを通じて正式撤回されるシナリオである。どれに転ぶかは、EUの規制簡素化(オムニバス)路線と環境政策の綱引きしだいであり、現時点で断定的な予測はできない。ただし実務の観点では、どのシナリオでも企業がやるべきことはほとんど変わらない。理由は次章のとおりだ。
4. 撤回でも消えない規制——ECGTが2026年9月27日に適用開始
グリーンクレーム指令の騒動の陰で、もう一つのEU環境表示規制は着実に進んだ。エンパワーリング消費者指令(Directive (EU) 2024/825、ECGT)は2024年2月に成立済みで、加盟国の国内法化期限は2026年3月27日、そして2026年9月27日から加盟国の国内法として事業者への適用が始まる。こちらは提案ではなく、すでに官報に掲載された確定法である。
ECGTは、UCPDの「あらゆる状況で禁止される取引慣行」のブラックリストに環境表示関連の項目を追加する。実証なき「環境にやさしい」「エコ」といった一般的環境主張、製品の一部の特性を製品全体の環境性能であるかのように見せる主張、認証制度等に基づかないサステナビリティーラベルの表示、そしてカーボンオフセット(排出量の相殺)を根拠に「カーボンニュートラル」「気候中立」等を製品に表示する行為——これらが一律に禁止対象となる。特にオフセット由来のカーボンニュートラル表示の禁止は、クレジット購入を訴求の根拠にしてきた企業に直接効く。禁止行為の詳細な整理と自社表示のセルフチェックは親記事の7類型チェックリストに譲るが、押さえるべきは「グリーンクレーム指令が止まったからEUの環境表示規制も止まった」という理解が完全な誤りだという点である。
5. 面としてのEU規制——PPWR・ESPR・加盟国法
環境表示を取り巻くEU規制は、ECGT単体ではなく面で進んでいる。包装分野では包装・包装廃棄物規則(Regulation (EU) 2025/40、PPWR)が2026年8月12日から適用され、リサイクル可能性や再生材含有率の要件が段階的に効いてくる。包装上の環境表示は「ECGTで主張の中身が規制され、PPWRで包装自体の性能が規制される」という二重構造になる。製品情報の基盤としては、エコデザイン規則(ESPR、Regulation (EU) 2024/1781)に基づくデジタル製品パスポート(DPP)の整備が進み、製品の環境情報を電子的に検証可能にする仕組みが対象製品群ごとに順次導入されていく。
さらに、加盟国レベルの独自規制も無視できない。フランスはEUに先行して気候レジリエンス法に基づくカーボンニュートラル表示規制を運用しており、ECGTの国内法化にあたって加盟国が執行体制や制裁を上乗せする余地もある。UCPDの制裁枠組みでは、広域的な違反に対して年間売上高の4%を上限とする制裁金を加盟国が設けることが求められており(前掲・EUR-Lex)、「指令だから緩い」という読みは通用しない。EU向けの製品規制対応という意味では、アパレル業界のEU規制対応やCBAM(炭素国境調整措置)と同じく、個別規制の施行日を追うより「面」で対応体制を組むほうが結局は効率的だ。
6. 日本企業の実務対応——指令の行方に賭けない
以上を踏まえると、EU市場で製品を販売する、あるいはEU向けの広告・ウェブサイトを運用する日本企業の対応は、グリーンクレーム指令の帰趨に賭けない形で組むべきだ。具体的には五つある。
第一に、EU向け表示の棚卸し。製品パッケージ、EC・ブランドサイト、広告、カタログに含まれる環境主張を洗い出し、「一般的環境主張」「ラベル」「オフセット由来の主張」に分類する。第二に、オフセット根拠のカーボンニュートラル表示の見直し。2026年9月27日以降、EU域内ではブラックリスト行為となるため、表示の削除か、実際の排出削減実績に基づく主張への置き換えを先行させる。第三に、根拠の文書化。ライフサイクル全体での排出量・環境影響のデータを、主張と対応付けて保管する。ここはScope 3算定の整備と地続きであり、算定体制がそのまま表示の防御力になる。第四に、ラベル・認証の整理。自社が使うマークが認証制度に基づくものか、自己宣言にすぎないのかを区別し、後者のEU向け使用は停止を検討する。第五に、国内表示との二正面対応。日本国内では景品表示法の優良誤認規制が環境表示にも適用されており、グローバルサイトで文言を統一するなら、実務上は最も厳しいEU基準に寄せておくのが安全である。
なお、グリーンクレーム指令が将来復活した場合に追加で必要になるのは、主として「事前検証」への対応——検証機関とのやり取りや申請実務——であり、実証データの整備という土台は上記の対応と共通している。いま土台を作っておけば、指令がどのシナリオに転んでも手戻りは小さい。
よくある質問(FAQ)
Q. グリーンクレーム指令は結局、撤回されたのか?
正式には撤回されていない。2025年6月20日に欧州委員会が撤回の意向を表明したが、直後に「撤回を決定した事実はない」と釈明し、正式な撤回手続きは踏まれていない。2025年10月採択の欧州委員会2026年作業計画でも係属中の提案として扱われており、審議停止(トリローグ中断)のまま宙づりが続いている——というのが公式記録に基づく正確な現状である。
Q. 指令が止まっているなら、EU向けの環境表示対応は不要になった?
不要にならない。確定法であるエンパワーリング消費者指令(ECGT)が2026年9月27日から適用され、実証なき一般的環境主張やオフセット由来のカーボンニュートラル表示などが禁止される。グリーンクレーム指令は「事前検証を上乗せする追加規制」であって、環境表示規制の本体はECGT側ですでに動き出している。
Q. ECGTとグリーンクレーム指令は何が違う?
ECGTは「してはいけない表示」をブラックリストで定める事後規制の強化で、すでに成立・適用開始が確定している。グリーンクレーム指令案は、表示の前に実証と第三者検証を義務付ける事前規制で、こちらは審議停止中。名前が似ているため混同されやすいが、成立状況も規制の性格も異なる。両指令の設計の違いはグリーンウォッシュ規制2026で詳しく整理している。
Q. 「カーボンニュートラル」の表示はもう使えないのか?
EU域内では、カーボンクレジット購入などオフセットを根拠とする製品のカーボンニュートラル・気候中立表示が2026年9月27日以降ブラックリスト行為になる。一方、自社バリューチェーンでの実際の排出削減実績に基づく具体的な主張(例:特定基準年比での削減率)は、実証を伴えば直ちに禁止されるわけではない。「何を根拠にした主張か」で線が引かれる、と理解しておきたい。
Q. 日本国内向けの表示にも影響はあるか?
ECGTの直接の適用対象はEU域内の消費者向け取引だが、実務への波及は大きい。グローバルで同じ製品・同じサイトを運用する場合、EU基準に合わせた文言統一が現実的な選択になるためだ。国内では景品表示法の優良誤認規制が環境表示に適用されており、根拠の乏しい環境訴求は国内でも措置命令・課徴金のリスクがある。日EUの規制を別物として二重管理するより、実証データを共通の土台にする方が運用は軽い。
こんなときに、Sasla
・EU向け製品・広告の環境表示をECGT適用開始前に総点検したい
・「カーボンニュートラル」訴求の見直しと代替表現の設計を相談したい
・環境主張の実証データ(LCA・排出量算定)の整備方針を固めたい
・欧州現地の執行動向・同業他社の対応水準を知る専門家に聞きたい
・景表法とEU規制の二正面での表示ガバナンス体制を作りたい
Saslaには、EU規制対応の実務経験者、消費財・アパレル・食品のサステナビリティー担当出身者、LCA・カーボンフットプリントの専門家、広告表示審査・法務の経験者が登録しています。1時間のスポットインタビューから本格的な伴走支援まで、フェーズと予算に応じて活用可能です。
指令の行方を追うより、根拠の整備を先に
グリーンクレーム指令の撤回騒動は、EUの立法プロセスとしては異例の混乱であり、今後も規制簡素化路線との綱引きのなかで動きうる。だが企業の実務から見れば、結論はすでに出ている。ECGTの適用開始で「根拠なき環境訴求」は禁止行為になり、PPWRやDPPが製品情報の検証可能性を要求し、国内でも景表法の執行が続く。指令一本の行方に一喜一憂するより、環境主張と実証データを対応付ける社内の仕組みを先に作ること——それが、どのシナリオでも無駄にならない唯一の投資である。規制の最新動向は必ず一次資料で確認しつつ、対応の設計はいまから始めたい。
出典・参考資料
本稿は、以下の公的資料をもとに2026年8月時点で整理した。グリーンクレーム指令案の審議状況は流動的であり、意思決定にあたっては必ず一次資料で最新の状態を確認してほしい。
- 審議経過・ステータス:欧州議会「Legislative Train Schedule: Substantiating green claims」(提案採択から審議停止までの公式記録)
- 指令案の内容:欧州委員会 環境総局「Green Claims」(実証・事前検証義務の概要)
- ECGT(確定法):「Directive (EU) 2024/825(エンパワーリング消費者指令)」(禁止行為・国内法化期限2026年3月27日・適用開始2026年9月27日)
- 包装規制:「Regulation (EU) 2025/40(包装・包装廃棄物規則、PPWR)」(2026年8月12日適用開始)
- 製品情報基盤:欧州委員会「Digital Product Passport」(ESPRに基づくDPPの導入方針)