医療・ヘルスケア部門は世界の温室効果ガス排出量(CO2e換算)の約4.4%を占める(Health Care Without Harm「Health Care's Climate Footprint」)。日本では医療・福祉部門のエネルギー起源CO2が年間約2,200万トン(環境省、2021年度)、国民医療費は約48兆円規模(2023年度)の業界全体で「健康を守る」役割と「環境負荷」のジレンマを抱える。NHS(英国国民保健サービス)は2040年Net Zero、Kaiser Permanente(米)は2020年カーボンニュートラル達成等、海外先進事例が増加。日本でも病院のZEB化、製薬大手のSBT認証、医療機器のサプライチェーン管理、PFAS含有医療機器の代替検討等が始まる。自院・自社の排出を、調達まで含めて説明できるだろうか。病院・製薬・医療機器・流通の4セグメントに分けて、動向と事業機会を順に追う。

1. 医療業界のCO2排出構造

医療業界のCO2排出は、エネルギー使用だけでなく調達・物流・廃棄物まで広範に及ぶ。

排出源の内訳(一般病院の場合)

  • Scope 1(直接排出):ボイラー・給湯・調理、そして吸入麻酔ガス
  • Scope 2(電力):購入電力
  • Scope 3(間接・サプライチェーン):最大の比率で、医薬品・医療機器の調達が中心(英国NHSの実測でサプライチェーンが約62%、HCWHのグローバル推計では約71%)

医療に固有の排出源も多い。吸入麻酔ガスのデスフルランはGWP(地球温暖化係数)2,540とCO2の数千倍の温室効果を持ち、喘息治療などの定量噴霧式吸入器(MDI)はHFC噴射剤を使う。使い捨て医療材料のプラスチック、滅菌・冷蔵の大きなエネルギー消費、感染性廃棄物の焼却——「医療の質を落とさずにどこまで減らせるか」という固有の制約条件が、他業界にはない難しさを生む。

2. 病院・医療機関のNetZero化

NHS(英国)の取組み

世界の医療機関で最先進。「Delivering a Net Zero NHS」(2020年)で2040年Net Zero目標を発表。

  • 2040年:NHSが直接管理する排出(NHS Carbon Footprint)のNet Zero
  • 2045年:サプライチェーン等を含む排出(NHS Carbon Footprint Plus)のNet Zero
  • 麻酔ガス削減、MDI代替への切替、再エネ電力、建物改修、サプライヤー要件追加

Kaiser Permanente(米国)

2020年に病院・医療施設のカーボンニュートラル達成(オフセット含む)。米国最大級の統合医療機関。

日本の動向

日本はNHSのような国家目標こそ持たないが、動きは始まっている。環境省の脱炭素化支援事業では自家消費型太陽光等の補助メニューが医療機関も対象になり得るほか、日本病院会など業界団体もサステナビリティへの取組みを打ち出す。建物側では河北総合病院(東京・杉並)が都内の急性期病院で初めてZEB Orientedを取得するなど、病院のZEB化事例が出始め、公的・民間の病院グループでも方針策定の動きが広がりつつある。

3. 病院の脱炭素戦略

エネルギー管理

着手しやすいのはエネルギー側だ。屋上太陽光やコーポレートPPAによる再エネ調達、高断熱・LED・空調最適化によるZEB化、自家発電と熱回収を組み合わせるコージェネレーション。災害時のBCPを兼ねられる水素・燃料電池も、24時間止められない病院とは相性がよい(関連記事:ZEBの事業化コーポレートPPA)。

麻酔ガス・MDI削減

臨床側の代表的な打ち手が、低GWPのセボフルラン中心への麻酔切替、余剰ガスの回収・破壊システム、そして吸入器のHFC噴射剤を使わないドライパウダー式(DPI)への切替である。規制も動いている。EUではフッ素ガス規則(Regulation (EU) 2024/573)により、2026年1月から医療上の必要がある場合を除きデスフルランの使用が禁止された。日本に直接の法規制はまだないが、低GWP麻酔への移行は国際標準になりつつある。

調達・サプライチェーンと廃棄物

排出の過半を占めるScope 3に切り込むには、医薬品・医療機器のサステナブル調達基準を設け、サプライヤーにSBT水準の目標やCDP回答を求め、再生・リユース可能な医療材料の採用を広げるしかない。院内では分別の徹底と減量化、非感染性廃棄物のリサイクル、使い捨てからリユースへの転換が柱になるが、感染管理との折り合いをどうつけるかが常に問われる。

4. 製薬業界のサステナビリティ

大手製薬のSBT認証

武田薬品、第一三共、アステラス、エーザイ、塩野義、住友ファーマ等の日本大手でSBT目標の設定・認定取得が進む。グローバルではPfizer、Novartis、Roche、AstraZeneca、GSK、Sanofi、Merck等が先行。

主要削減施策

削減の主戦場は製造とその上流にある。製造所の再エネ電力化とエネルギー効率化に加え、排出が集中する原薬・中間体の工程ではグリーンケミストリー(溶媒回収・酵素利用)が鍵を握る。包装のプラ削減・再生材活用、コールドチェーンを含む物流の脱炭素も並行して進み、先行企業は環境影響評価をR&D段階から組み込み始めた。上市後に直すより、分子設計・プロセス設計の段階で織り込むほうが安いからだ。原料から廃棄までのライフサイクルCO2算定や製品環境フットプリント(PEF)の開発も、この流れの延長線上にある。

5. 医療機器業界のサステナビリティ

主要プレイヤー

テルモ、オリンパス、フクダ電子、キヤノンメディカル(旧 東芝メディカル)、富士フイルム、シスメックス(日本)、Medtronic、Stryker、Boston Scientific、Siemens Healthineers、GE HealthCare、Philips(グローバル)。

サステナビリティ論点

医療機器の最大の論点は使い捨てとリユースのトレードオフだ。感染管理の要請は使い捨てを推し、環境負荷はリユースを推す——この綱引きを製品カテゴリごとに解くしかない。カテーテル・ステント・内視鏡コーティング等に含まれるPFASの代替検討(関連記事:PFAS規制で困る下流サプライヤー)、個別包装・トレーの簡素化、エチレンオキサイドガスに頼らない滅菌への転換も進む。一方で、中古機器を再生して販売するリファビッシュは環境と収益を両立させる数少ない領域として拡大している。規制側では、EU MDR(医療機器規則)への環境要件追加の検討、米FDAの環境影響の透明性要求、各国PFAS規制における医療機器の例外扱いの帰趨が、製品設計の前提を左右する。

6. 流通・卸の役割

医薬品・医療機器の流通も脱炭素対応が必要。

主要プレイヤー

メディパルHD、アルフレッサ、東邦HD、スズケン(医薬卸)、シップヘルスケアHD、ムトウ、メディアスHD(医療機器卸)等。

打ち手は物流業界の脱炭素と共通する。配送ルートの最適化と共同配送・地域物流統合で走行そのものを減らし、EV・FCトラックや温度管理車の省エネ化で単位排出を下げ、包装簡素化とコンテナリユースで資材を減らす。多頻度小口配送が常態の医薬品流通では、共同配送の座組みづくりが最も効く一手になる。

7. デジタルヘルスとサステナビリティ

遠隔医療・オンライン診療は患者の通院移動を、電子カルテ・電子処方箋は紙を、AI診断支援は不要な検査を、在宅モニタリングは入院・通院そのものを減らす——デジタル化は医療の排出構造を需要側から変える力を持つ。ただし、機器製造やデータセンターの排出まで含めた純削減効果は条件次第であり、無条件のプラスと見なすべきではない。

8. 気候変動と健康 — 適応側の役割

医療業界の役割は排出削減(緩和)だけではない。熱中症や感染症の拡大、呼吸器疾患といった気候関連疾患への備え、食料安全保障と栄養、気候不安・災害ストレスといったメンタルヘルスまで、気候変動の健康影響への「適応」も守備範囲に入る。人・動物・環境の健康を統合的に捉えるOne Healthの考え方も、この文脈で参照されることが増えている。

9. 投資家・規制動向

投資家の視線は厳しくなっている。製薬大手はMSCIやSustainalyticsのESG格付で常時評価され、途上国の医薬品アクセスを測る「アクセス・トゥ・メディシン指数」、TCFDTNFDに沿った気候・自然リスク開示も定着した。規制面では、EU CSRDが大手製薬・医療機器企業に適用される(2026年2月のオムニバス指令で対象は従業員1,000人超・売上高4.5億ユーロ超に縮小)ほか、EU医薬品法制の包括改正(2025年12月政治合意)で環境リスク評価(ERA)の厳格化が進む。SBTは任意イニシアチブだが、取引先や投資家がSBT水準の目標設定を事実上の取引条件として求める動きが広がっている。

10. スタートアップ・新規ビジネス機会

規制と病院側の需要が生む新市場も見えてきた。医療機器のリユース・リファビッシュではMedlineやStryker Sustainability Solutionsが先行し、植物由来素材や簡素化によるサステナブル医薬品包装、余剰麻酔ガスの回収・再生システム、エネルギー・廃棄物を見える化する病院DX、気候変動と疾患の相関を分析する気候・健康データSaaSまで、参入余地は臨床の外側に広く分布している。

11. 中小・地域医療機関の対応

大学病院や大手医療法人と異なり、中小・地域医療機関では人材・予算の制約が大きい。現実的なのは、投資対効果の見えやすいエネルギー管理から始めて廃棄物、調達へと段階的に広げる順序だ。単独で難しいことは自治体病院・診療所との地域連携や共同調達で補い、国・自治体の補助金と業界団体のガイドラインを使い倒す。全部を一度にやろうとしないことが、続けるための最初の意思決定になる。

12. 海外動向

欧州は英NHSのNet Zero目標を筆頭に医療機関のRace to Zero参加が広がり、CSRDが企業側を締める。北米ではHealth Care Without HarmのGlobal Green and Healthy Hospitalsネットワーク、Practice Greenhealthの会員ネットワーク・表彰制度がハブとなり、Kaiser PermanenteやCleveland Clinicといった先進事例を生んできた。アジアでもシンガポール・台湾・韓国の医療機関がNet Zero宣言を出し始めており、「医療の脱炭素は欧米の話」という前提はすでに崩れている。

よくある質問(FAQ)

Q. 病院でNetZeroを目指す現実的な期間は?

2040〜2050年が一般的。Scope 1+2は10〜15年で達成可能だが、Scope 3(医薬品・医療機器サプライチェーン)は20〜30年スパン。早期着手と段階的実装が現実的。

Q. 麻酔ガス削減は本当に効果あるか?

大きな効果。デスフルランは強力な温室効果ガス(GWPは約2,540)で、1本(240ml)の使用で数百kg-CO2e規模(ガソリン車で数千km走行に相当)の排出になるとされる。デスフルランのGWPはセボフルランの約18倍(2,540対144)で、切替により麻酔ガス由来の排出は大幅に削減できる。EUでは2026年1月からデスフルランの使用自体が原則禁止となった。

Q. 中小病院がコスト負担に耐えられる?

国・自治体の補助金活用、ESCO(エネルギーサービスカンパニー)契約、リース・サブスクリプション、地域連携での共同調達等を組み合わせれば中小でも対応可能。

Q. 医療廃棄物のリサイクル拡大の障壁は?

感染性廃棄物の安全管理、廃棄物管理者の許可、医療材料リサイクル業者の不足、コスト、患者への影響懸念等。段階的取組み(非感染性プラ・紙から)と専門業者との連携で克服。

Q. 製薬大手の脱炭素対応は新規事業機会につながるか?

つながる。グリーンケミストリー(溶媒回収、酵素利用)、サステナブル包装、低排出物流、デジタルヘルスは新規市場として拡大。製薬・化学・包装・物流企業の連携が事業機会を生む。

Q. 医療機器企業のサーキュラー戦略の特徴は?

使い捨て医療材料の代替(リユース可能設計)、リファビッシュ事業(中古医療機器の再生)、回収プログラム(使用済機器の引取)、リース・サブスクモデル(製品の所有から利用へ)。Stryker、Medtronic等の先進事例。

こんなときに、Sasla

・病院のNetZero戦略・ZEB化を業界専門家と整理したい
・製薬・医療機器企業のSBT・CSRD対応の論点整理
・PFAS含有医療機器の代替検討
・医療機器リユース・リファビッシュ事業の参入機会
・サステナブル医薬品包装・物流の事業設計
・地域医療機関の連携・共同調達による脱炭素

Saslaには、大学病院・大手医療法人のサステナビリティ担当者、製薬大手の環境責任者、医療機器メーカーのR&D・サプライチェーン担当、医療廃棄物管理の専門家、医療業界アナリスト、ヘルスケアSaaS起業家が登録しています。1時間のスポットインタビューから本格的なリサーチ・伴走支援まで、フェーズと予算に応じて活用可能です。

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13. 「健康を守る」と「環境を守る」を両立する

医療・ヘルスケア業界のサステナビリティは、「健康を守る業界が環境を破壊する皮肉」を解消する取組み。気候変動が健康に与える影響を考えれば、医療業界の脱炭素は「未来の健康を守る」ことに直結する。

2026〜2030年は、縮小後も大手に適用される欧州CSRD、日本のSSBJ開示義務化、製薬大手のSBT本格化、病院のZEB化補助金拡大が同時並行で進む時期。医療業界の全プレイヤーが業界専門家とともに、健康と環境の両立を目指す事業設計を構築することで、長期的な競争力と社会的信頼が築かれる。

出典・参考資料

本稿で参照した主な一次資料。排出割合・統計は各公表時点のもの。