SBT(Science Based Targets、科学的根拠に基づく目標)は、パリ協定の1.5℃目標と整合する企業のGHG排出削減目標設定の国際基準。SBTi(Science Based Targets initiative)が運営する。日本企業のSBT認定数は2025年10月時点で2,000社超に達し、世界1位を維持。中小企業(SME)が約80%を占め、5年で20倍超の急増を見せる。2025年3月にはSBTiがCorporate Net-Zero Standard V2のドラフトを公表し、短期目標67%/長期目標90%のバウンダリ廃止、ネットゼロ整合サプライヤー比率の導入、検証モデルの段階化など、大幅な刷新を進めている。本稿では、SBTi公式ドキュメント、環境省「グリーン・バリューチェーンプラットフォーム」、関連業界統計を踏まえ、SBTの基本構造、V2の主要変更、業種別の論点、企業の実装ロードマップを包括整理する。
1. なぜSBTか — パリ協定との整合性
SBTiは2015年、CDP・国連グローバル・コンパクト・WRI・WWFが共同で設立。後にWe Mean Business Coalitionも参画。パリ協定の温暖化抑制目標(当初2℃、後に1.5℃強化)に整合する企業の排出削減目標を、科学的根拠に基づき設定・認定する枠組みを提供する。
SBTiが提供する3つのコア機能
① 目標設定基準(Standards):1.5℃・2℃シナリオに整合する削減経路の定量化
② 目標審査サービス(Validation):企業の設定目標が基準に適合するかの第三者認定
③ ガイダンスとツール:業種別ガイダンス、削減経路計算ツール、ベストプラクティス事例
SBT認定(目標がSBTiに検証された)企業は2026年初に世界で累計1万社を突破した(2025年だけで2,800社超を新規認定)。コミット中(目標設定を表明)の企業を含めた合算は約1.26万社で、認定企業だけで世界の時価総額の4割超をカバーする中核イニシアチブになっている。
2. 日本企業の状況 — 世界1位・SME中心
日本のSBT認定状況(2025年)
・認定企業数:2,000社超(世界1位、過去5年で20倍超)
・SME(中小企業)が約80%を占める
・東証プライム上場企業の約20%が参加
・産業別では電子機器、機械、建設・エンジニアリング、製薬・バイオが上位
・金融、鉄鋼、化学はまだ比率が低い(後述)
日本企業のSBT普及の特徴は、大企業中心ではなく、サプライチェーン全体のSMEへの広がり。これは大手のサプライヤーエンゲージメント目標(Scope 3対応の一環)が、下請・部品メーカーへ目標設定要請として伝播した結果である。経済産業省・環境省も中小向けSBT支援を強化しており、認定取得の敷居が下がっている。
3. SBT認定の主要要件(V1まで)
2025年3月のV2ドラフト公表前まで適用されてきたV1の枠組み。多くの認定企業の現行目標はこれに基づく。
目標範囲(Scope)
- Scope 1+2:絶対量削減目標(必須)
- Scope 3:Scope 1+2+3の総排出量の40%以上を占めるカテゴリは目標設定対象に含める
削減水準
- 1.5℃シナリオ整合:2030年までに年間4.2%削減
- 2℃整合(Well-below 2°C):年間2.5%削減(Scope 1+2は2022年7月以降、新規認定は1.5℃整合に一本化)
- 長期目標(Net Zero):2050年までにScope 1+2+3でネットゼロ
サプライヤーエンゲージメント目標
Scope 3カテゴリ1(購入した製品・サービス)の削減には、サプライヤーの目標設定要請が必要。SBT-Aligned Supplier Engagement Targetは:
- 5年以内に、購入金額または排出量の67%を占めるサプライヤーがSBT認定または同等の科学的目標を設定すること
これがScope 3記事で触れた「サプライヤーエンゲージメント」の枠組みの源流である。
4. V2(2025年3月公表)の主要変更点
2025年3月、SBTiは Corporate Net-Zero Standard V2 の最初のドラフトを公表。2025年11月に第2次改訂案が公開され、2028年1月1日からV2が義務適用される予定。主要変更は4点。
V2の主要変更(V1比)
① 企業区分の導入
カテゴリーA(大企業)とカテゴリーB(中小企業・SME)で要件を区分。短期目標/長期目標の必須範囲が異なる
② 固定バウンダリの廃止
V1の「Scope 3排出のカバレッジを近接目標で67%以上・長期目標で90%以上」という固定の対象範囲基準(前述のサプライヤーエンゲージメント目標の67%とは別概念)から、より柔軟な方式へ
③ 検証モデルの段階化
初期認定だけでなく、継続的な進捗評価をSBTiが実施。スポットチェック制度も導入
④ 残余排出量と炭素除去の扱い
ネットゼロ年以前および以降の残余排出量への対処を明確化、炭素除去(Carbon Removal)の段階導入
企業区分(カテゴリーA / B)
- カテゴリーA企業:Scope 1+2+3に対する短期目標・長期目標が必須
- カテゴリーB企業(SME):Scope 1+2の目標が必須、Scope 3は柔軟性あり
SMEの参加ハードルを下げる一方、大企業にはより厳密なScope 3対応を求める設計。日本の認定企業の80%がSMEという構造を考えると、V2への移行でSME要件の運用詳細が日本企業の対応を大きく左右する。
5. SBT-FI(金融機関向け)— カテゴリ15
金融機関のScope 3はカテゴリ15(投資)が支配的で、通常Scope 3の80〜90%を占める。SBTは金融機関向けに専用基準「SBT for Financial Institutions(SBT-FI)」を整備。投融資先のGHG排出量をPCAF(Partnership for Carbon Accounting Financials)準拠で算定し、ポートフォリオ全体でSBT認定を取得する仕組み。
SBT-FIの主要メソドロジー
- Portfolio Coverage Approach:投融資先のSBT認定比率を増加させる目標
- SDA(Sectoral Decarbonization Approach):セクター別のCO2原単位削減目標
- Temperature Rating Approach:投融資先の目標から温度上昇シナリオを算出
日本でも三菱UFJ、三井住友、みずほ、農林中央金庫等のメガバンクが投融資先含むSBT認定取得や移行戦略を進める。金融機関のSBT認定取得は、サステナビリティー・リンク・ローン(SLL)、グリーンボンド等の金融商品設計とも連動する。
6. SBTN — 自然関連目標の登場
SBTiの自然版がSBTN(Science Based Targets Network、自然のための科学的根拠に基づく目標)。TNFD記事で触れたAR³T フレームワーク(Avoid、Reduce、Restore、Regenerate、Transform)と連動して、企業が自然関連目標を設定する仕組み。
SBTNの対象領域
- 淡水(Freshwater):取水量、汚染、生態系
- 土地(Land):森林・農地・湿地への影響
- 海洋(Ocean):海洋資源、海洋生態系(開発中)
- 生物多様性(Biodiversity):種・生態系の保全
SBTNは2023年から先行企業による試行が始まり、2025年以降に本格運用フェーズへ移行中。TNFD開示と一体で運用されるのが基本パターン。気候SBTで蓄積した社内体制とプロセスが、SBTN対応の土台になる。
7. 業種別の論点 — 高排出セクターの課題
SBTi認定企業の業種分布は偏りがある。日本では電子機器、機械、建設、製薬が上位、鉄鋼・化学・電力のような高排出・移行困難セクターは比率が低い。
鉄鋼・セメント・化学(Hard-to-Abate)
これらのセクターはSDA(Sectoral Decarbonization Approach)で業界別の削減経路が定義されているが、技術的削減余地が限定的(水素還元、CCUSなど開発中の技術依存)で、2030年目標の達成と1.5℃整合が両立困難な状況。日本鉄鋼大手は移行計画(Transition Plan)と組み合わせたSBT認定取得を進める。
金融機関
カテゴリ15(投融資)が支配的で、投融資先の脱炭素軌道に依存。SBT-FIで定義されるPortfolio Coverage、SDA、Temperature Rating の3アプローチから選択。日本のメガバンクは2024-25年にかけて相次いで取得。
食品・農業(FLAG)
FLAG(Forest, Land and Agriculture)は2022年に新設された業種別ガイダンス。土地利用、森林破壊由来排出、メタン排出等を扱う。日本の食品大手(味の素、キリン、明治、ネスレ日本など)が認定取得を進める。
製薬・バイオ
製薬・バイオは日本での認定企業数が多いが、研究開発設備の電力・冷蔵関連の排出が大半。製品使用段階のScope 3カテゴリ11は限定的なため、Scope 1+2中心の目標で済むケースが多い。
8. 認定取得のプロセス — 4ステップ
SBT認定の取得は4段階のステップで進める。
SBT認定取得の4ステップ
Step 1:コミット(Commit)
SBTi に目標設定の意思表明を提出。コミット後24カ月以内に目標を提出する義務
Step 2:目標設定(Develop)
Scope 1+2+3の排出量算定、削減経路計算、目標値の設定
Step 3:目標提出・審査(Submit & Validate)
SBTi に審査申請、Q&A対応、修正、最終認定
Step 4:開示・進捗報告(Disclose & Report)
目標と進捗を年次でCDP・統合報告書等で開示
SME向け簡略プロセス
中小企業はSME Routeとして簡略化されたプロセスが用意されている。Scope 1+2のみで認定取得可能、目標水準も標準コミットメント(1.5℃整合)を選択する形式。日本のSME認定急増の背景はこのSME Routeにある。
9. SBT認定の運用コスト
SBT認定取得・維持にかかるコストは、企業規模で大きく異なる。
- SBTi審査手数料:SMEは数千ドル、大企業は数万ドル(2024年に価格改定、増加傾向)
- 社内体制構築:Scope 1+2+3算定、外部コンサル活用
- 削減施策投資:本来の削減アクション(PPA、省エネ、燃料転換、サプライヤー協力)
- 第三者検証:保証取得が必要な場合、追加コスト
- 継続報告:CDP回答、年次進捗開示
初期投資としては数百万円〜数億円規模、その後の継続コストは数千万円規模が一般的(業種・規模による)。
10. SSBJ・CSRDとの整合性
SBTは目標設定の基準、SSBJ/CSRDは開示の基準。両者は補完関係にある。
SBT × SSBJ × CSRDの関係
SBT:目標水準と削減経路を1.5℃整合で定義
SSBJ気候基準:目標と実績の開示要求
CSRD ESRS E1:目標、シナリオ分析、移行計画の開示要求
→ SBT認定取得→目標を開示するフローが標準的
SBT認定取得企業は、SSBJ・CSRD対応の開示コンテンツが大幅に整っている状態。逆にSBTがないと、SSBJ気候基準で「目標と目標に対する実績」のセクションが弱くなる。SBT取得は開示品質を引き上げる先行投資として位置づけられる。
11. サプライヤーエンゲージメントの実務
大企業のSBT認定取得後、最大の実務課題はサプライヤーへの目標設定要請。直接的に強制はできないが、調達契約、取引条件、サプライヤー監査を通じて促す必要がある。
段階的アプローチ
- サプライヤーセグメンテーション:戦略的(上位10〜30社)、重要、一般の3層に分類
- 戦略的サプライヤーに直接対話:トップ会談、共同削減プロジェクト、技術支援
- 調達契約への組み込み:新規・更新時に脱炭素目標を契約条項化
- 業界協働:単独企業では限界、業界団体での共同要請(Catena-X、TfS等)
- SBT取得サポート:SMEサプライヤーへのコンサル・補助金紹介
12. 中堅・中小企業のSBT取得メリット
SMEの認定取得が日本で急増している背景には、複数の経済合理性がある。
- 大手取引先からの要請対応:取引条件としての対応
- SLL(サステナビリティー・リンク・ローン)の活用:低利融資
- 採用力強化:環境意識の高い若年層への訴求
- 補助金・税制優遇:環境省・経産省の支援メニュー
- 競合差別化:同業他社に対する優位性確立
- 欧米取引先要請への先行対応:CBAM、CSRD等の連動
初期コストは小規模なSMEでも100〜500万円程度。1〜2年で投資回収できる事例が増えている。
13. M&A・事業ポートフォリオの論点
SBT認定は、M&A局面でも価値要素として組み込まれる。
- 買収対象の認定状況:認定有 vs 未認定で、買収後の連結ポートフォリオの目標達成への影響
- SBT-FIファンドの対象判定:金融機関の投融資先選定で認定有が優位に
- カーブアウト:分離後の認定維持・再取得、Scope境界線変更
- JV・合弁:JVの認定単位、母体企業との関係整理
とくに買収対象が高排出セクターの場合、買収後の連結排出量増がSBT認定維持のリスクとなる。M&Aサステナビリティ BDDの一環として、SBT影響の試算が必須化しつつある。
14. V2移行の準備
2028年1月1日のV2義務適用に向けて、認定企業は次の準備が必要:
- カテゴリー判定:自社がA(大企業)かB(SME)か
- Scope 3カテゴリの再評価:固定67%バウンダリ廃止に伴う、対象カテゴリの再特定
- ネットゼロ整合サプライヤー比率:新指標の算定、目標値設定
- 残余排出量と炭素除去の戦略:ネットゼロ年以降の対応計画
- 継続検証の準備:データ品質、内部統制、第三者保証
2026〜2027年はV1目標とV2新要件の併存期。早期にV2要件を分析し、移行ロードマップを描く企業ほどスムーズに対応できる。
こんなときに、Sasla
・SBT認定取得の判断、業界経験者の感覚値(コスト・期間・優先順位)が欲しい
・V2移行戦略、カテゴリーA/Bの判定、新指標への対応設計のレビュー
・サプライヤーエンゲージメント目標の実装、SMEサプライヤー支援設計
・SBT-FI(金融機関向け)のポートフォリオ算定、PCAF対応の実務支援
・SBTNの試行参加、TNFDとの統合運用
・M&AでSBT認定企業の評価・買収後の認定維持戦略
Saslaには、サステナビリティー部門経験者、SBT審査経験のあるコンサル、SBT-FI実務担当(メガバンク・地銀)、業種別の脱炭素戦略担当、サステナビリティーDDアドバイザーが業界横断で登録しています。1時間のスポットインタビューから本格的なリサーチ・伴走支援まで、フェーズと予算に応じて活用可能です。
15. SBTは「目標から実装へ」の触媒
SBTは2015年の設立から10年で、サステナビリティー経営の事実上の世界標準になった。日本企業の認定数2,000社超は単なる数の話ではなく、サプライチェーン全体での脱炭素志向の浸透を示している。
V2移行(2028年義務化)、SBTN本格運用、CBAM・SSBJ・CSRDとの整合化——複数の進化が同期して進む。SBT認定は「規制対応の最低限」ではなく「事業継続の前提」に位置づけが変わりつつある。早く動いた企業ほど、削減アクションの実績、サプライヤーとの信頼関係、業界共通の標準データ基盤、グリーンファイナンスへのアクセスという、模倣困難な資産を蓄積できる。
出典・参考資料
本稿で参照した主な一次資料。SBTiの基準値・統計は各公表時点のもので、V2移行に伴い変わりうる。
- Science Based Targets initiative(SBTi)公式(Corporate Net-Zero Standard・近接目標基準等)
- SBTi「検証済み目標を持つ企業が累計1万社に到達」(認定企業数・日本が2,000社で世界1位)
- 環境省「グリーン・バリューチェーンプラットフォーム」